そうだ、わたしは研究者になりたかった。大学院に進学して認知心理学の研究をもう少ししてみたかった。
『水中の哲学者たち』(永井玲衣/晶文社)を読んで、なぜかふと思い出した。現実はというと、大学院には行かず会社員として働き、そして詩人でもある。
人生は無数の選択の積み重ねで、だから、あり得たかもしれない姿・そうありたかった姿を思ってしまう。細かな選択は毎日毎日あって、時に訪れる人生を左右する選択。無数とは言わないまでも、いくつかある選択肢の中から、そのときそのとき、最善だと思ったもの、あるいは最悪ではないだろうと判断したものを選んでいても。
わたしは大学で心理学を専攻した。高校生の頃、心理学にするか哲学にするか迷っていた時期があって、そのとき「ただでさえ混迷しかけている人生が、さらに混迷しかねない」と思って哲学を選ばなかった。心理学を専攻したことは後悔がない。それどころか、大学院に進学したいとまで思った。それは諸事情で叶わなかった。わたしが進学しないことを卒業論文の主査・副査の教員は惜しんでくれて、「学問は逃げませんからね」という言葉をもらった。それから、大学院に進学する友人が「でも、君はどこかにろくろを回した姿の写真が載る気がする」というようなことを言ってくれた。
学問の道に戻ることはなかったけれど、写真は載った。それも、新聞に詩と一緒に。
大学を卒業して、就職して、心身を壊して回復期に詩を書いてみようと思った。読むことが好きで、大学時代は文芸部に入ってみて詩を書いたり短い小説を書いたりしていた。何か書きたいなと思って、小説は向いていないことがわかっていたので、詩か短歌だろう。短歌を書いてみたら、さっぱり向いていなかった。三十一音、五七五七七に収めるのが無理だった。反面、詩はスッと書けて、自分の形はこれだなと思った。そのあと、いろいろあったのだが、詩を書いている。何度か原稿依頼をもらって、投稿欄以外に詩を掲載してもらったので、一応詩人と名乗っている。
読書をするとき、小説や詩歌を読むことが多いが、思い出したように研究者が書いた一般読者向けの本や入門書を読む。それはわたしが研究者になりたかったからかもしれないし、「学問は逃げませんからね」という言葉のおかげかもしれない。ジャンルは、主に心理学・言語学・哲学だ。心理学は専攻していたから、哲学は専攻しようと思っていたから、言語学は関心があった心理学の分野に近接しているから。読んだものはたいてい現実には直接的に作用しないのだが、それでよくて、なんとなく自分の世界というか枠組みが広がった気がする。
今を肯定することと、あり得たかもしれない姿を思うことは両立する。わたしは大学生の頃には想定していなかった詩人になったけれど、面白い人生だなくらいに思っている。生きていることそのものについては、生まれたからには生きるしかないなと思っているけれど、あの時の選択にはこういう意味があったのかな、とはたまに考える。考えて忘れている。なぜ、わたしが今、こういう形でここにいるのか。それは選択と偶然の結果だろう。まあ、あんまり深く考えると生活に差し障るので。